昭和44年05月07日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう。元気な心で信心せよ。」
ここで一番大切なことは、私は一番最後に「元気な心で信心せよ」ということだと思う。元気な心で、信心を頂きぬかなければなりません。けれども、やはりそこは人間ですから、ね、困ったことや難儀なことばかりが、続いたんでは、そう辛抱のできるもんじゃありません。そこんところを、この一心に元気な心をもってお縋りしてまいりますと、はあ、神様のお働きというものは、有り難いもんだなあ。
なるほどこれでも神様のご守護を受けておるんだなという、実感というか、そういうおかげを受けさせて頂きながら、お取り祓いが頂けれると、いうところに、辛抱し抜いていくことができる。金光様の信心とはそういう、生きた働きが必ずあるんだと思うです。ねえ。いわばおかげらしいおかげも頂けずに、ただ巡りのお取り祓いだとかまあ言うならば、井戸がえをするのに、いくら汲んでもいくら汲んでも濁った水やら、いろんな嫌なものばかりが出て来る様な事ではです。
そう人間続くもんじゃありませんけれどもその中にも、ね、その中にも有り難いなあと、本当に神様なればこそじゃというような、その特別のおかげに触れる事が出来るから、有り難いのだとまた辛抱が出来るのだと。言うならば、元気な心で信心するということによってですね、まあ場合には嬉しゅう、場合には楽しゅう、ね、いけるから「苦しい。けれども有り難い。」という事になってくるのだと。
叩かれて痛くない者はありません。ですから叩かれりゃ痛いんですけれども、痛いけれども有り難いんです。そこに何とも言葉では言い表しようのないほどの、まあ言うなら神様のまあ微妙なまでのお働きがです、自分の心に感じ取れれるようになる所までが、だから信心だと思う。なるほどお取次ぎを頂いてお願いをしておかげを受けた。受けたけれどもこの次にゃ願うた事は願うた通りにならずに、反対になった。
まあおかげを受けた、受けたけれど、そこんところがね。この頃はああしてお願いをしておかげを受けた、今度はおかげを頂けなかった。この前のあれは“ふ”が良かったんじゃ。ああ神様も大したことはないと言う様に、その途中で止める人もあります。新たにお導きを頂いてお参りをする、様々な難儀を持って来る、お取次ぎをさして頂くことによってです、それこそ素人でも分かるような。
成程これは神様のおかげじゃなあといったようなおかげを、神様はもう必ず見せて下さる。ああ広大、まあ広大なおかげとは言わんでも、本当にやっぱ不思議なこっちゃございます。有り難いおかげを頂きましたと言うてお礼に出てくる。それから信心が少し続けられる。そすとまあ二度三度は受けても、そう柳の下にばかり魚はおらんというようにね、まあ自分の思うようにならない。そこで、信心を止める。
いわゆる受けたおかげを、おかげと思わずに、あっ“ふ”がよかったぐらいにしか思わんのらしい。だからその辺のところが、大事だろうと思うね。だんだん信心をさして頂いて、だんだんおかげを頂いてくる。言うならばこの道を教えてもらい、この信心を頂いていけば、必ず、清水になるまでのおかげが受けられるぞと、確信が段々もってこれれる。そこから本の信心がだんだんでけてくるようになると思うね。
所謂見通しが付いてくる。これ程しのか働きを下さる神様だものおかげを下さらんはずはない。おかげが受けられんのはこちらの信心がまだ足りんからであると、ね。というところから、生まれてくる所謂「まめで繁盛するよう元気な心で」というのが生まれてくる。その見通しがを付けなければいけません。先は明るいそこを目指して一心に改まり、一心に磨いていく事に楽しみが出来て来るような信心を身に付けていきたい。
ここ昨日でしたか、福岡の高橋さんの例を取ってお話を聞いて貰ったですね。連休でお店の方も大変賑った。お寿司屋さんをしておられます。昨日の御理解から頂くと、前前日のことは500余りでしたかね、500のお弁当を、香椎花園に出された。それが一割の44個返品になってきた。いくらお寿司が儲かっても一番よか、その言うなら一割のものが返品になってきたんでは、かなわない。
けれどもその時に、高橋さんが感じられたことはです、ね、そのま言うなら44個が、巡りのお取り祓いになるものならば有難いことだと。先日お夢を頂いて大変さ、難儀の掛って来るお知らせを頂いたが、ね、その時に自分が神様に願うたことは、ね、もしその様な事が起きてきたら実に悲しい事になる。ね、そう言う様な事柄がです、例えばこのくらいな犠牲というか、このくらいなお取り祓いで済むなら、有り難い事だと、その時思うたこと願うたことは、ね。
そこんところのお取り祓いを頂くためになら、私がどんな修行でもさして頂くから、と、願うたばっかしの後であったから、その一割の返品もまた有り難かったわけです。所がその次の日は、まてんやわんやと言うかまタイミングが、悪かったと言うか。そういう中にもやはり、一日大変忙しい一日であり、まおかげを頂いて、沢山の弁当が香椎花園か、それから平和台の、に納められることがでけた。
そいで昨日の朝お参りをして見えてからの、またお届けなのである。昨日の朝はそれこそまあニコニコですわねああ広大なおかげ頂いた。毎日お願いをされ今日はどこどこに弁当を出さなきゃならん、何百ぐらいのものを出したらいいだろうかと。向こからは500言ってきた。けどもまあ300でよかろう。と言われた所が実は3、その500も作っとっても足らん位に売れてああ次から次と注文があっててんやわんやしたと。
ところがその翌日の、昨日のお届けでは香椎花園の方にお弁当を、向こうの注文通りに、500でしたか700でしたか出された。私どもは2時か3時頃からこの辺はお湿りだったですから、ははあお弁当だけは売れたなと私は思いよった。昼のお弁当ですから所が福岡ではねもう12時頃からぼちぼち雨、お湿りがありだしたっちいうです。それでその時がっさり300もの弁べ、そのそれがその余って返って来た訳です。
それ引取りにきてくれていうわけで雨が降って来たもんですから。平和台の方は今日は、初めてああいうふうに頂いたんですけども、何ですかあのう天気予報見ながらそれに合わせて、作るなら作ったがよかろう。雨が降ってきたからもうストップしましたから、まそれは作り損にならんで済んだ。所がそのう売れるはずの今度は、香椎花園のお弁当がですね、丁度肝心な昼頃からお湿りがありだしたもんですから。
300もの弁当が余ってきた、引取りに来てくれ。そこで高橋さん自動車で、それを引取りに行って、自動車でその300の弁当を乗せてから、あまあその間色々と考えたんです。先日も気合い入れられとりますから、これはどういうふうに頂いたがいいか。折角是を頂くならですね、やはり神様に喜んで頂くような、頂き方をしなきゃいけん。例え300が、ねまっても。ね。
そこでそれをどういうふうに頂いたが、おかげかという事を一生懸命その、自動車の中で思わして頂きよって、ふっと自分の心の中に感じた事であった。前に支店が新天町の方にあります。支店の方から、この頃ご大祭の時に店を休業しておられましたから、そん時が( ? )あちらから借りてあった支店の方から。それで支店の方に回ってみろうかと。となんかなんとはなしにそういう気がしたから。
支店の方に回った所が、丁度支店の方にはなんとかどっからかですね、270個の弁当の注文があっとるとこじゃった。お繰り合わせを頂いたおかげで30しか余らんわけですよね。さあ300っち言われたってそれは間に合いはしません。けれども香椎花園のが余っとったから、あの、それを気づかせて頂いてですね、丁度よかったんなそれを、こちらへ回して下さいという事になり、30はまあうちで売れた。
ところが( ? )も実にタイミングのよい事でですね、どうしたもんかそのお店では沢山のそのいなり寿司が、いなり寿司ばっかりが沢山でけとったんです。こんなん沢山作ってどうするかと言うてその、言うておりました所がです、その日はもうその買うていか、売れますのがねいなり寿司ばぁっかりだった。30、50っちいうごたるふうで、纏ってですねもうとにかく店を閉めるまで、いなり寿司いなり寿司じゃったっち。
こんな事は珍しい事である。おかげでまあお店には全然残り物もなく、綺麗にお繰り合わせ頂いておかげ頂いたというのである。そこで私ここんところをです、この28節から一つ皆さん頂いてみなきゃいけんと思うんです。信心をさせて頂いておればです、ね、本当に神様が、いわゆる元気な心を出さなければおられないような、または楽しゅうなるようないや痛いけれども、これは損をしたけれども、けれども有り難いというものが、後に伴うて来る様なお繰り合わせを頂いておるでしょうが。
例えばこの三日間の事についてですね、ね、本当に置いた物を取る様にタイミングようおかげを頂いたかと思うと、そのあくる日はもうそれこそ、ご神意を頂いて作らせて頂いた所がそれでは足らずにもう、とにかくてんやわんやしてもうあっちこっちから叱られるばっかりじゃった。しかもその日一日に起きて来ることは、もういわゆる最低のタイミングであった。はあおかげであるおかげだと思えない様な事ばっかりあった。
けれども一日を締めくくってみると、矢張りおかげを受けておる。その翌日ははあ成程、こういうおかげを頂こういう事があるから信心な止められんという位なおかげを頂いた。ね。これはんならこの三日間だけでの事、何時もがそうなんです。それでどうでしょうね、その三福っていう寿司屋さんが、今三日目のようなそう言う様な、お繰り合わせの中に、ずうっとそういうおかげが続いたら。
もうそれこそ瞬く間に蔵が建つでしょう。けれどもさあ神様はそんなふうにばかりは、いわば問屋が卸さんと言う様に、おかげをいわば素人が見て、おかげと思う様なおかげばかりは続かんという事。そこで高橋さん感じられる事ですよ。こういう間違いのない働きを下さる神様なのだから、得をする時にもその様であるなら損をする時にもそういう神様の一分一厘間違のいない働きの中にある事だと分かられた。ね、
ですからそこんところにもお礼が言える。いわば井戸は清水になるまで、もうとにかく、一生懸命願うても願うても、わが思い通りにならない。意のとおりにならない。右と願やあ左、左と願やあ右と、言った様な事ばぁっかりではやりきれない。そうですよね。けれども、ここんところにその、片一方の手では叩きながら、片一方の手はさすられるような働きというものを、見たり頂いたり感じたりするから、ね、
お取次ぎを頂いて起きてくることに、例え良いことでも悪いことでもみな良いという、確信が持てるようになるんです。ね。そういう私は生き生きした働きをですね、自分の身の上に家の上に頂いていって、初めておかげを受ける事がでける。例えば病気や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸替えをするに、七分ああ九分でまで退屈してやめれば掃除はできん。それでやはり水は濁っているようなもので。
信心も途中でやめれば病気災難の根は切れんと、そこでその病気災難の根が切れる、いよいよ井戸替えができる、もう後からこんこんと沸いてくる水は綺麗な、清水のようなおかげばっかりだと、ね、ここんところを私共の願いとさせて頂くことですけれども、ね、そこまでに行くまでにはです、例えば、そういう、おかげの道に出るまでにはです。その道を作っていくためには、犠牲を払わなければならない。
昨日私はあることの願いをさせて頂いておりましたら、矢張りあの道を作っていくというこ時にはね、道をつく新たに作る時にはね畑であったとか、あ家があったとかといういう場合には家を取り壊したり、畑である場合はその畑を潰さなければ道は出来やしませんでしょうですから、例えばここで言うそのここで28節に教えて下さる様にです、それこそもう限りなくこんこんとして湧いてくる井戸の水のようにです、
そういうおかげ、言うならめぐりのお取り払いの頂けれるまで、病気災難は根の切れるまで、のおかげを頂いて、本当のおかげの頂けれる道に出るまでにはです、そういう犠牲もまた必要だという事です。道を作っていくためには、今まで畑であった田んぼであったところを、道にしていかなければなりません。ね、またはそこにもし家があるならばです、家はやはり、取り壊したりせなければでけんでしょうが。ね、
そこに新たな道というのがでけてくるんです。しかもそれがね、山を壊してまたは山に道を作るという事になればもう大変な事なんです。私先日あの久留米からこうここの発心の上に下りてきて裏の道を下りさせて頂いてから、ああ大変な事だなとこう思ったんですがね。ここで久富さんがそれを受け合っております。勿論マイトをかけなければ出来ません大きな岩石をその壊し壊し道を作っていかなければならんのですから。
だから道を作るということはね、そういう犠牲を払わなければならないという事。そういう努力が必要であるという事。例えば平易な道であってすら畑を犠牲にし、家を犠牲にしていかなければならんのですから、これが山道である場合、ね、この山を向こうへトンネルをほがしてでもと言った様な道を作る場合にはです、もう大変ないわゆる最後にまめで繁盛するよう元気な心でと仰る。
元気な心がなからなければ出来る事じゃありません。はぁここにはこげな大きな岩石があるけんでもう俺はダメだって言って行き詰まる。そこに行き詰まりを感じたりあと行って嘆息しておったんでは、道は出来はしません。けれどもですね、その犠牲をして犠牲にしていくという事です。それが有難いんだ楽しいんだという事になってくる時に、信心が有難いのです。はあもうそげんきつか事ばっかりなら信心はでけんと。
まあ信心のない人から見たら、まあようも毎朝毎朝、朝の3時も4時頃から、合楽合楽っていって皆がお参りしござるが、よっぽど難儀な事じゃろうというて、信心のない者は言うくらいな所をです、皆さんは通っておる訳ですけれども、それが楽しゅうならないけん。それがね嬉しい事にならなきゃいけん。それが生き生きとした元気な心でやってぬけなければいけんのですがね。
お互いがそういう楽しい、有り難い信心を頂き、そういう道を作っていく事を教えられておるけどもですね、その道を作っていくという精進をしよらんようである。ですからいつまでも本当のおかげの、いわゆる井戸は清水になるまでのおかげが受けられん。ね、どっかそこらへんのところを、行ったぁり来たり同しこつばっかししよるような感じがするがね、私は本当に新しいおかげの展開になっていないもん。
なんかそこにちょっと難しい壁にぶつかると、もうそのそこんところを行ったり来たりして、おるような感じがする。ね、それではおかげもやっぱり堂々回り。そこで例えばそういう有り難い道にでるというか、そういう井戸が清水になるまでの、おかげを頂かせて頂くというためにはそこに、犠牲を払わなければならない、その犠牲を払わなければならんがその犠牲も楽しゅう、嬉しゅうそこんところが分かったら出来るという事をま、高橋さんの例をもってしましたけどね。
自分の置いた物を取るように、はあもう今日は広大なおかげを頂きました、と言う様な事ばっかりじゃないという事。もう本当に考えてみればふがよかったと言う様な言葉じゃで分からない。これを神様のおかげと思わなければおられないという程しのおかげを受ける。かと思うとそれとは反対にの事にもなってくるけれども、こういう間違いのない働きをくださる神様であるから、この事も矢張りおかげである。
これ、今こそ井戸が清水になるまでの働きを神様がして下さってあるんだと分かる。今こそお取り払いを頂いておる時だという事が、実感がでけるから、叩かれてもまた有り難いのであるという事。そこにです今私が言う犠牲。例えばその前の日に一割ものお弁当が返ってきた。これはいわば犠牲を払っておるわけです。ね、だから犠牲を払っておるということは言うならお取り払いを頂いておることである。ね、
道を作っていくのには矢張り畑を犠牲にしなければならん。場合には家を壊したりもしなければならん。そういう犠牲がなか、が払われなければ道はでけていかんと。という事が分かるからです、ね、そういう道がでけていきよる事が有り難い。信心はいよいよ自分というものを空しゅうして行く稽古だと言われておる。それはそのまま自分というものを犠牲にしていく稽古をさして貰う事である。
そこから自分というものがなくなってくる。ね、自分というものがなくなってくるという事は、私はこんなに楽な有り難い事はないのです。それを私はあの素直になるという事、いうふうにいつも申します。しかもなるならばもう馬鹿ほどに、抜けた素直になれとこう言うのである。素直になる、この素直な人というのはね、自分というものがないんです。自分というものを空しゅうしておるから、素直になれるんです。
自分な右に行こうと思うけど、先生が左に行けはい。自分の考え出したら、先生の言う事聞かれやしません。ことの様々な事の自体を成り行きを例えば大切にしていけと言われてもです大切にできません。素直になっておるからできます。素直になっているから例えば自分は泣き泣きでも「はい」と言わんわけにはいけん。そしてその先に分からせて頂く事はです、所謂神様任せというか、それは儲かっても損をしてもです。
神様任せで進まして頂いておるということ。言うならお取次ぎを頂いて起きて来る事は、それが例えば良い悪いは別としてです、例え目の前には悪い事であっても、必ず最後には良いと確信ができれる信心がそこから生まれてくる。ですから自分を犠牲にしていくと。例えば自分だけではない、様々な事を犠牲にして行く稽古は、自分をいよいよ空しゅうしていくけいこにもなるのです。
自分を空しゅうする所から、いわゆる素直な信心ができるようになる、ね。いわゆる神様任せの本当な生き方ができるようになる。氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますという世界が顕現されてくる。ね、そこに井戸は清水になるまでのおかげが頂かれてくるようになる。井戸は清水になるまでのおかげ、病気災難は根の切れるまでと仰る根の切れるまでのその道すがら、過程においてはです。
ただ今私が申しますような、ところを必ず通らなければならない。そこには有り難いおかげの頂ける道がだんだんでけてきよる。ね、そういう道を作るのであるから、犠牲もまた必要だと。ね、そういう犠牲を払うていくけいこをしていきよるうちに、自分がなくなる。自分を空しゅうすることができる。神様任せになっておけば、おかげが受けられるという確信がいよいよ、深く持てれるようになる、ね。
そこんところをです、一心にまめで繁盛するよう、元気な心で願うていかなければいけません。ね、元気な心というのは、有り難い心でということでもありましょう。その有り難い心がです、どんな場合でも、ね、例えば損をしたときでも、ね、損をしたことはそれは難儀なことではあるけれども有り難い。このようにして、お取り払いをくださってあるということ、を、思わせてもらう。
それは、片一方には、このようにも間違いのない神様の働きをくださる神様であるから、そういう神様のご守護の中に起きてくることであるからという、思い込みがだんだん強うなって、だんだん自分が空しゅうなっていけれる。素直になっていけれる。ね、いわゆる、神様の前に無条件に両手を上げていくことができる。無条件に降伏さしてもらうことができる。神様が右向けと仰りゃ、はいと言わんわけにはいかん。
こうして手を上げとる、ね、そうして、おかげを頂いていく内にです、いかに神様任せになっていくということが有り難いことかということが分かる。そこんところを、ね、氏子が神様任せなら、ね、氏子がいわゆる神様本位なら、神様が氏子本位になってくださるんだということ。そこから頂けれるおかげ、そういうおかげの道に出るまで、お互いが一心に繁盛するよう元気な心で信心していかなければならない。
(ここで終わりかどうか分からない。終わりが変な切れ方になってる)